香月泰男「シベリアシリーズ」

義姉の今後について話し合いのため横須賀に帰りました。その帰り道、葉山一色にある県立美術館 葉山に立ち寄り、「生誕110年・香月泰男展」を観ました。

香月泰男を知ったのはいつなのか、思い出せません。書籍(立花隆さん)か?丸木夫妻とのTV番組だったかはっきりしません。ただ、彼の連作「シベリアシリーズ」に衝撃を受け、美術館のある山口県長門市三隅まで訪ねたことがあります。しかし、それらはすべて山口県立美術館の所蔵になっていて、実作を観ることはかなわず、今回の巡回展が実作を観た最初でした。

1945年の敗戦から1947年5月の帰郷まで、捕虜としてシベリアに抑留されていた画家が1959年から描き出した40点を超える作品群は、画家個人の記憶の表現だけでなく、生きること死ぬこと、戦争の悲劇、を、炭を混ぜた油絵具の圧倒的な「黒」を使って観るものに投げかけてきます。

1945という作品の作者自身の注釈には

「奉天から北上する列車の窓から中国人(ママ)に恨みをかった日本人の生皮をはがされた屍体を見た。赤い屍体だった。

その後広島の被爆者の黒く焼け焦げた黒い屍体の写真を見た。

戦争の悲劇は無この被害者による受難よりも、加害者にならなかったものに、より大きいものがある。

戦争の本質への深い洞察も真の反戦運動も、黒い屍体からでなく赤い屍体から生まれなければならない。

再び赤い屍体を生みださないためにはどうすればよいか、それを考え続けるために『シベリアシリーズ』を描いてきた」

そして、出征を描いた「別れ」というシリーズ最終作品の注釈には

「実際には日の丸一本ふられたわけではない。

しかし、個人の意思が国家体制によって無視されるその門出には、目に見えぬ「黒い日の丸」が振られていた」

美術館の外は秋の雲が流れ、海は眩しく輝いています。

幾百の ひつじが跳ねる空 爽(さ)やか

 

看護師が自ら命をたった

Facebookの友達から、シェアしてほしいとの投稿があった。

今月初め、関西で働く看護師が自死した。ニュースにもならず、したがって皆の関心を呼び起こさない。医療の現場の現状を判ってほしいとの内容だった。

かおるさんというその看護師の友人からの投稿の全文は下記。

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関西で働く同期の看護師の友達が自殺しました

春からずっとコロナ病棟に勤めてました

ここ2週間はスタッフがたりず重症者は爆発的に増え始め退職者も続き家にも帰れず仮眠室に寝泊まりしてた、、それが現実

彼女は先月大好きな彼と入籍したばかりでした

コロナが落ちついたら式をあげるから絶対来てねって数日前に電話で言われたばかりだった

その子は脳神経内科にいたのに病院がコロナを受けいれはじめてそこに配属になり半年がたっていた

やりたい看護もできなくなってこんな大変なのに基本給もボーナスも減らされて辛いって話したばっかりだった

家に帰りたい休みたい

旦那さんに会いたいって

かおりんの声聞いたら元気もらえそうだから電話しちゃったって泣きながらかけてきて

まさかこんなことになるなんて

助けてあげられなくてショックで辛いです

都市は重症者が増える一方

スタッフは疲弊しきり絶望して鬱や退職を選ぶ

なんでこの医療現場のやばい状況を見て見ぬふりするの??

国は医療従事者に一回だけ慰労金配ってあとはどうにかがんばってくれ

なのに受け入れるほとんどの病院は赤字になり基本給が減り最悪ボーナスもでないとこもたくさんあるのが現実

そんなんじゃ限界なんだよ

仕事帰りに友達の旦那から泣いて電話きて私は絶句しました

友達の旦那からニュースにもならない、政府は医療現場になにもしてくれない、この事実を拡散してほしいとお願いされました。。旦那さんはSNSをやっていないからです。。読んだらシェアお願いしますニュースにしてほしいのが家族の希望です

私はTwitterやってないからわからないんですがTwitterでも拡散してほしいです 

Twitterでは作り話や、嘘つき、友人の死をネタにする最低看護師とかなり誹謗中傷もけっこうおきてるとまわりの友人に聞いてるので、フルネームをふせていただきたいです

よろしくお願いいたします

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新型コロナ感染の拡大が止まらない。最前線で戦っている医療従事者の方たちには頭が下がる。

国は感染が始まってから、どのような感染拡大を防ぐ手段をとったのだろうか、中国のように1000床の仮設専門病院を短期間でつくることもせず、ただ右往左往して現場の努力に任せて恥をしらなかった。時間は待ってはくれず、第2波、第3波とその規模は大きくなるに任せていた、GO‐TOというキャンペーンはディテールの検討がなされておらず、感染拡大に手(拡大のエビデンスはないと詭弁する。無いとの証拠も勿論ないのだが)を貸した。

名古屋大学の岩田先生は国の対応を戦中の「インパール作戦」に例えた。ネットでは「戦争はいかなければならず、GO‐TOは参加しなければ良いのであって、そのような例えによって、国を批判するのは筋違い」と非難する。反論する気もないが、岩田先生がたとえたのはその作戦の無計画性と、作戦遂行能力(武器弾薬など兵站)の欠如、情報の収集力の不備と不的確な分析、そしてなによりも責任者の無責任さである。国は最大の国難という。ならば国会の会期を無期限に延長し、対応すべきだろう。医療現場は休みなしで働いている。

「インパール作戦」の遂行時、作戦本部は前線から500KM 離れた避暑地にあって、参謀用の娼館も備えていた。ましてや各員専属の娼妓もいた。それは本部が移動するたびについてきたという。そして全線で作戦に異議を唱える人間(大隊長など)は左遷されていった。何よりもその作戦指揮した将校は戦後生き残り、国会議員になりそして逃亡した。司令長官は作戦の妥当性(責任回避)を説いて回っていた。

まるっきり同じではないか。

高い志をもって知識を習得し国家資格試験に合格し、命の尊さを第一に考え職務に邁進していた若い命が自らの手で断ち切ってしまった。そうせざるを得なかった状況を私たちは真剣に自分のこととして受け止めなければならないなずだ。

ご冥福を祈る。

ホスピスにおける緩和ケアのスピリチュアルケアの意味  岡田圭先生の講演

一昨年に開設した中国では初めてになる完全個室(中国ではまだ、認知症ケアは多床室です)認知症高齢者のユニットケアを試み、3年という時間、手探りながら認知症ケアに対して良い結果を上げています。

今回、そのホームの入居者に、末期がんの方が2名入居されまました。開設して約3年、新たに終末期ケアの必要性が生じてきました。現場のスタッフにとって、新たな大きな課題と挑戦です。

 

昨日講義を受けた中に、「個人の傷」を含めた歴史をひも解くことで、その人の本来のケア(個別、オーダーメイドのケア)が可能になるとの単元がありました。

認知症高齢者のケアで重要なことは、彼ら個人の歴史(Personal history)を紡ぐ事といわれます。それによって初めてパーソナルケアが可能となり、これからの時間、生活の質の向上が確保できるといわれます。これはターミナルケアも同じ視点に立っていると思い、賛同するものです。

確かにその人が過ごしてきた歴史、環境、その背景を知ることはとても重要なケアの条件です。しかし、その国の文化、経過した時間、生きてきた歴史のその時点によって、大きな差異があることは認めなければなりません。それは講義の中で「同じ事象でも個人によって異なる」という先生のお話しだと思います。その中で「個人の傷」の深さに注目しなければならないと思いました。「傷口」を表に出すのではなく、覆うことも必要なのではと思うからです。先生は確か「知る」と言われたと思いますが、その中には知っていて隠す(覆う)ことが含まれていると理解します。

例えば、我が国ではすでに戦後生まれの世代が高齢期に達しています。我々には戦争(戦場)の記憶がない人間が大多数になりました。私たちにとっての半生には戦争という「精神への致命傷となるべき傷」は少ないと言えます。

しかし、中国ではいま高齢期に達している人たちの多くは1960年代の「大躍進政策」(3000万人を飢餓者を出したといわれる)による大飢餓時代、それに続く60年代後半から70年代の「文化大革命」を過ごしてきた人たちです。彼らにとって、それは決して振り返りたくない歴史=社会的傷、そして個人的な実際的な「傷」です。

大躍進時代の大飢餓を乗り越える中で、子供を親を見捨てた現実があるかもしれません。「文化大革命時代」、懇意にしていた隣人を密告したかもしれない、中國全土で起こった悲劇は、多くの人たちに我々からは想像を絶する深い傷を負わせ、その当事者は厚い包帯の下に今でもうずく傷を隠し持っています。

アメリカではベトナム戦争でしょうか。ベトナムで虐殺に参加したかもしれない、集落を焼き払い、ナパーム弾を投下したかもしれない。そのような呵責(消せない傷)を背負って生きてきた人たちが、わたしたちに傷口を見せることができるだろうかと思うのです。

わたしの父親が戦争については一言も話さなかったことに共通する「何か」を隠し持っているはずです。私にはもう知るすべはありませんが・・。

 

終末期でのケアの中で、その事実を話すこと(話させること?)で、彼らは「呵責」救われて生きることができるのでしょうか?他者(ケアのスタッフ)と共有することで救われるのでしょうか?そもそも共有できる傷でしょうか?それは記憶の後ろに押し込めておくべき腫瘍なのかもしれないのです。

 

ここでもう一つの問題に気づきました。

その「傷の深さ」は我々(ケアサービス側)の倫理観、もしくは時代の倫理観によって判定(評価)している点です。

彼らにとっては積極的に参加した「文化大革命」の行動は「善」であり、密告は「必然」であったかも知れないのです。そのことに誇りこそ持っていても卑下することは何もなく傷にすらなっていないとも考えられます。

ベトナム戦争で行われた蛮行も、必然であり、国に対して忠誠と愛国心の発露でありこそこれ、卑下されることは考えてもいない人もいるだろうことを認識する必要があるのです。

ケアの対象に向かうにあたり、彼らの倫理観、その人の持つ多様な価値観を尊重することが、終末期におけるケアの第一歩だと思いました。

 

終末期に与えられた短い時間の中で、我々はそこまでの関係性を築くことは可能なのか?門外漢である私にはわかりません。まして、中国における終末期のケアについて、まだまだその方法論や手法は確立されているわけではありませんから、これから試行錯誤のうえに培っていくことになります。彼ら(スタッフ)にとって重い課題を背負わされたことを感じています。

そして、その道のりの険しさと遠さを改めて気づかされた講義でした。

 

  

一方水土養一方人

北京で老人ホームの新築と幼稚園の改修プロジェクトが進んでいる。

責任者が二人来日し、日本からの建築資材の調達打ち合わせを行った。代理店との協議で多くの仕上げ材料を使うことができた。シックハウス症候群のない安全で安心のできる材料を、老人や子供たちの環境に使えることは、彼らの理念を補完することになると思う。

打合せの後に日本酒の杯を傾けながらの会話の中で、「一方水土養一方人」という言葉が出た。なぜ地方によってこのように味わが違うのだろうかと、様々な日本酒を飲みながらの会話だったと思う。

ひるがえって、彼らがやろうとしている「老人ホーム」のケアは日本で行われているユニット・ケアや認知症の高齢者をケアするグループホームの形態をとっている。中国でまだ多床室ケアが中心のなか、一足飛びに完全個室化ケアを目指している。しかし、現代中国が現れてからたった70年、その後内乱や他国の戦争への参加、多くの政治的激動を今の高齢者たちは経験している。わたしたちはその歴史を学習し、風土や生活習慣、文化を考慮してケアのプログラムを組み立てることが必要であると話し合った。

日本のケアシステムの導入をそのまま受け入れるのではなく、われわれ日本側のサポートチームも彼らの歴史、風土、文化、生活慣習を学び、お互いに最善のケアシステムを探しながら構築していく必要があると感じた。

「一方水土養一方人」。その土地の水や土はその地の人を育てる。まさしく様々な価値観、異なる文化を尊重し、彼らが本当に望むケアを作り上げてほしい。口に含む日本酒のように地域の特質を生かしたケアができることを目指したいと、桜の咲く季節東京で語りあった。

流れる時間を見ながら

仕事の合間にシーズンを終えた海辺のリゾートに出かけました。

ひっそりとした海岸と海を眺めながら、持ってきた文庫本を読みながらの一日は、いつもは意識しない時間の流れを感じました。

太陽の動きに思わず「天動説」を信じました。

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VW おまえもか

VWが米国でのディーゼルエンジン排ガス規定の基準を逃れるために、検査時点だけ最大限に作動する浄化設備をコントロールするソフトを不正に搭載して販売したという。企業理念として環境問題を最重要課題としたVWがこのような不正をしたことっをまだ信じられない。

EUの排ガス規定EURO5は主にCO2を規制することに重点を置いているから、NOXについては多分にあまいところがある。反対に米国ではNOXの基準が厳しいというジレンマから、コスト増加を避けるために(販売利益、ひるがえってシュア獲得のため)根本的な対応をさけて、コンピューターソフトを改ざん(開発)する愚にでたといわれている。

これで企業の信頼は地に落ちたし、企業トップが変わったとしてもその回復には多大な時間がかかるだろう。トヨタとの販売台数競争を第一とした企業戦略は大きなダメージを与えたわけだ。販売台数を増やすこと、巨大化することのリスクを図らずも知らせしめたことになった。

我々の分野(高齢者住宅)でも多数展開することにそのような危険性をはらんではいないだろうか?100を超える事業展開を行った末に、スタッフの教育がままならず、末端まで企業理念が浸透していかないことでそのイメージを損なうことになっていないだろうか?

数は必ずしも善ではなく、時として悪の姿も見せることを今回のVWは証明して見せた。我々はこれを他山の石として肝に銘じなければならない。

二十歳の原点

15歳のこどもの頃、画家になりたかった。

横須賀の田舎の中学校で、美術部の部長などをやっていたからではないが、いわゆる「井の中の蛙大海を知らず」の喩え通りのこどもだった。

先輩には芸大へ進んだものも多く、上級生にも中学生で芸大志望の者もいたから、情操教育として美術が盛んだったのだろう。いやはや怖いもの知らずである。

しかし、家庭の事情で絵で食えるような状況でなく、早々にあきらめたのは、先輩で絵で食えていたのは一人だけだったから、子供心に先が見えていたのだと思う。

求龍堂「画家たちの二十歳の原点」。日本の画家たちの20歳のころの作品集である。

10代の終わり、不安や自己の未熟さを秘めながら、社会に対峙していった、若い(時の)作家の自画像や処女作ともいえる作品群は、みずみずしい無限のチカラにあふれ、何にも負けない筆の運びがあった。

そして何よりも描かれた自画像(多くのモチーフは自画像だった)は、まっすぐに何かを射るような目をむけて、若い覚悟を示し、古い権威や商業主義に染まらない純粋な絵画への思いが満ち溢れている。

既に建築設計の丁稚奉公を始めていた自分は、20歳のころそのような覚悟で「もの(対象)」に対峙していただろうか?その覚悟の無いものが、表現者として世に出てはいけないのだと、彼らは作品を通じて無言で異議申し立てをしている。

40年余の回り道をして、いま「二十歳の原点」に戻りたいとこころから思う。

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Mr,フェアレディ 逝く

Mr,フェアレディ。Mr,Kこと片山豊さんが21日105歳で亡くなられました。日産自動車の米国社長であり、技術畑以外ではめずらしく、本田宗一郎氏と米国の自動車殿堂入りを果たした、我が国の自動車文化の黎明期を駆け抜けた人でした。
米国では彼の名前は広く知れ渡り、米国大陸を大きく太平洋側から大西洋側へZを描くラリーイベントにも招待され、皆からMr,Kと慕われていました。
90歳を過ぎてさすがに杖を放さなくなりましたが、自動車に対する情熱はますます高まったように感じました。あるとき、DATSUN(ダットサン)という世界に知れ渡ったブランドをNISSANに変えるはなしが出た時は「ユニクロをファーストリテイリングに変えるのと同じだ。なぜ知れ渡ったブランド名を日本の都合で変えるのか」と、とても起こっていらした。
わたしが所属していたSCCJ(日本スポーツカークラブ)の重鎮でもありました。
ご冥福をお祈りいたします。

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日産自動車HPより転載

2015.2.22

「希望の地図 3.11から始まる物語」  重松清 著

山形への列車の中で読もうと立ち寄った本屋で手にした重松清著「希望の地図・3.11から始まる物語」。

2011年の9月から、著者が宮古、大槌、釜石、陸前高田、気仙沼、南三陸、女川、石巻、そして飯館、いわきへ、ルポライターの田村と登校拒否の中学生光司の言葉を通じて、訪ね歩いた多くの人々からの言葉をつづった、ちょっと異色のルポルタージュです。
北三陸鉄道の人たち、壁新聞を出し続けた記者の志、町のラジオ局で情報を出し続ける人、崩壊した会社を立て直すためにまず従業員の雇用を優先した社長、いわきのフラガールたち。

破壊された風景を目にして、絶望せずに前を向いて、土地(そこでの生活)を愛し立ち上がった(ざるを得なかった)人たちの思いを忘れないこと、この震災の悲惨を次の世代へ受け継がせることの意味を問いかけています。
中学生光司を、震災後を生きる若者のメタファーとして、ライターの田村もまた光司と向き合うことで被災地に向き合い続ける覚悟をします。「希望の地図」の後ろには多くの「絶望の地図」があり、私たちはそのことも決して忘れてはならないと田村は光司に言います。

「この場にいてもいいのだろうか?」光司は田村に問いかけます。田村は、「その場に立つことで、TVの映像ではわからない街の暗さや、防風林をなくした海風の強さを感じ取ることが、震災の風化を食い止める唯一の手段だ」とも言います。

彼らを忘れないこと。彼らへの想像力を高め続けること。われわれにできることはこのことだと気づかされました。

このルポルタージュは2011年の9月から日刊ゲンダイで連載されたものです。日刊ゲンダイ!やるときはやるな!

新幹線の中で、隣に座る人に涙を気づかせないようにしながら。

 

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地方の活性化とは

山形市を根拠地とする山形交響楽団(以下山響)が足かけ9年の年月をかけて、モーツァルトの交響曲全曲を演奏するというプロジェクトを立ち上げ、2月14日にファイナルを迎えました。大雪で新幹線の遅れも予想される中、世界でも比類ない試みの中に身を置くために、山形へ出かけました。
当日のプログラムは交響曲1番(モーツァルト8歳の作品)K-16、交響曲二長調K-97第47番(後年発見されました)そして休憩をはさんでモーツァルト未完の作品、レクイエム・ニ短調K-626でした。満席の山形テルサホールの人たちは、暖かで、質の高い音のハーモニーを堪能したと思います。オーケストラは1管編成、弦楽も4プルトの小規模な構成ですが、管楽器は古い様式の楽器を使用するなど、こだわりとモーツァルトらしい柔らかな音を響かせていました。
何よりも、うれしかったことは山響が本当に山形の人たちに愛され、ささえられ、私たちのオーケストラだとの気持ちがとても強く伝わってきたことです。演奏の初めには音楽監督・指揮者の飯森範親さんのプレトークがあり、演奏後はホワイエで観客を囲んでの懇親会を催すなど、音楽の楽しさを伝えていきたいとするオーケストラ側の意識を感じます。
足かけ9年の時間をかけ成し遂げたこのプロジェクトは、音楽監督の飯森範親さんの力が大きいとはいえ、楽団員全員の快挙と言っていいでしょう。地方のいちオーケストラだった山響が、このプロジェクトを通じて成長し、我が国でまれな音を持つ交響楽団に成長したことは、とても素晴らしいことだと思う。

地方活性化と叫ばれて久しいですが、活性化とは、このように土地の持つ風土や文化の濃度を高めることで、中央におもねるのではなく独自の文化性を持つことが最重要なことだと思います。まず自らの風土ありき。その風土を愛で、育むことで、中央と対等な力をつけることができるはずだから。

 

その山響も、資金難から今年の定期は回数を減らし、楽団員のボーナスも夏・冬支給できないと告げられているといいます。市民に愛され高い芸術性を持つ山響などが、経済的な不安を抱えながら活動しなければならないのは、この国に本当のやさしさや他者への思い、精神のゆたかさへの想像力が欠けている証拠ではないかと思います。
ここ数日の仕事上の鬱積した気持ちのオリが、山響の響きに濾過されていくのを感じながら、雪の夜の山形を東京へ戻りました。

 

2015.2.14

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誰でも表現者

滋賀県近江八幡の重要伝統的建造物保存地区の一角に、古民家を利用した我が国唯一の美術館「ボーダーレス・アート・ミュージアムNO-MA」があります。今月18日まで、「ing 11 障害のある人の進行形」という美術展が開かれていました。
この展覧会は様々な障がいを持った人たちが、生活の中で取り組んできた「表現の成果」を絵画や陶芸を通して私たちに見せてくれています。
NO-MOで行われた第一回の「アールブリュット・ボーダーレスアート展」を見てから、今回で2回目の訪問ですが、新鮮な表現に驚きがいっぱいでした。大捕萌さんの浮遊感あふれる線の集合。清水健生さんの文字による風景。片山みずほさんの「粘土」という題のまるで五百羅漢のような人形の群れ。芦田和馬さんの緻密でダイナミックな造形。馬場みちこさんの「実はね、わたし、だるまなんです」等々緻密な色彩や造形のその表現力とユーモアに感動を通り越して、衝撃すら覚えます。
子どものころには持っていた純粋な表現する心を、わたしたちはいつしか無くしてしまった。彼らの作品に対面すると、物事を純粋に見ること、自分の手を使って表現すること、そして何よりも表現することの喜びを思い出させてくれます。


今年。2月21日〜3月22日まで「アール・ブリュット☆アート☆日本2展」がNOMOを中心に近江八幡市内の会場で開かれます。

 

2015年1月21日

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待っている

12月26日。今年も仕事納めを迎えた。とても早い(速かった)一年だった。

そんな師走の慌ただしさの中で、朝刊三面のトップに「不遇な環境社会の問題」と題する記事が載った。

今年3月に、当時17歳の少年(18歳)が犯した祖父母殺害事件の、裁判員裁判の判決(懲役15年)が言い渡された記事だ。母親(強盗罪などで服役中)から「殺してでも」金を借りてこいと言われ、曽祖父の家を訪ねた少年が独自の判断で、包丁で二人を殺害し8万円を奪った、やりきれない事件で、少年法の最高刑である無期懲役を求刑されたのも、それなりの理由があった。

一方で、少年が小学校4年生から学校に通わせてもら得ず、「居住不明児」として過酷な環境に育ったことについて、その状況に大人が気づかなかった、また改善しようとしなかったことが残念だとの見解を司法は占めした。母親が離婚すると毎晩のように来るホストが酒を飲むのにつき合わされ、母親の再婚相手に些細なことで殴られ、金の無心をさせられた少年に、判決言い渡しで裁判長は「君がおじいさんとおばあさんを手にかけたのは、母親にも原因があるのは間違いない、だからと言って罪がなくなるわけではない。実父や君を想う人とともに、君が社会に戻ってくるのを、我々も待っていようと思う。」と伝えた。

これから15年。青春のすべてを拘束されて過ごさなければならない少年にとって、人生とはなんだったのだろうかと考える。人は、必要だからこそこの世に生まれてくる。必要とされる働きを少年は15年間奪われる、少年にとって、生まれてきたこの世は意味があるのだろうか?あるはずだ。それを奪ったのは、多くは大人たちに責任がある。15年後、2030年の日本に、少年の戻る場所はあるのだろうか、「待っている」という大人たちがその「場」を作ることが大人たちの責任であり、そこへ導くこれからの指針を示すことも大人たちの責任だ。

「待っている」という言葉は重い。私たちはその重さを自覚し、15年後にその「場」を準備しなければならない。

もし、この社会に親以外で少年を見守る大人の目があったなら、このような悲劇は起こらなかったのか?少年が無駄な15年(あるいはそれ以上)を過ごす必要は無かったのか?それはわからないけれど、母親も少年同様、孤立していたのだとすれば、社会の愛情の不足がこのような悲劇を生みだしたといえる。

社会の愛情とは、守られるべき母親や、すべての子どもたちが、多くの大人たちの目に守られて、当然の愛情と教育を受けられることだ。少年は会見を開く弁護士に「自分みたいな存在を作ってはダメだと伝えてほしい」と話したという。その言葉を多くのひと(大人)が受け止め、15年後の少年が本当に「待っていてくれた」と言える社会ができることを強く望んでいる。

 

 

2014年12月27日

パラレル・ワールドを信じますか?

人並みにFace book なるものを始めました。普通ならば絶対(多分)行き会わない人と、つながりができることの不思議さにまだ戸惑っています。

 

当たり前ですが、ひとは多くの人と繋がりながら生きていきます。そのつながりは、偶然の選択によってもたらされたものです。私たちは多くの場面で行先を選択しています。その選択肢の一つでも別のものであったなら、いまテーブルを囲んでいる人は違っていたはずです。

樹木が枝葉を伸ばしていくように、多くの選択肢が同じ幹から出ています。隣の枝をたどると、まるで正反対の枝葉にたどり着きます。人の一生もたくさんの選択肢の中から、その時その時に選んだ結果、今があります。

別の枝を選んでいたら、職業も違っていましたし、触れ合う人も違ったはずです。

遠く離れ、環境が異なり、また生まれた時間(何年という)が経ていても、いつかすれ違い、一瞬のつながりから、同じテーブルに隣り合わせる不思議が、楽しくもあり、少し恐ろしくも感じます。

ある日、交差点で並んだ人が、文字通り隣人になることもあったのです。あるいは今隣にいる人が、地方都市の交差点ですれ違って忘れ去っていくのです。偶然と、自分の意思の選択と、微妙に混ざり合って、自分の人生が成り立っているとしたら、いまの出会いを大切にし、その偶然を楽しみたいと思うのです。

 

それと同時に、自分の隣り合わせに、まるで別の人生が同時進行しているのです。あるとき、ある場所の扉を開けると、なしえなかった別の人生を歩いている自分が、見つかるかもしれません。

深夜に届くメールの見知らぬアドレスは、もしかしたら月が二つ浮かんでいるパラレル・ワールドから届くもう一人の自分からかもしれません。

 

 

2014年12月1日

恐竜の滅亡

F1世界選手権2014シーズンがアブダビで閉幕した。2014年チャンピオンは、ルイス・ハミルトン、2位も僚友のロズベルグ。メルセデスの圧勝だった。

このシーズンはエンジンや車体のデザイン(とても醜かった)など多くのレギュレーション変更があり、運営資金に余裕のあるチームが順当に勝利を重ね、チャンピオンとなった。反対に思うように開発が進まない、資金に余裕のないいわゆる弱小チームは、ケーターハムのように身売り話が出るなど、集中してレースに臨める体制ではなく、ただ参加している状況が一年続いた。小林可夢偉は結果を残せなかったが、まともに走れないマシンではどうしようもない。

2015年は、ホンダがマクラーレンにエンジン提供するなど新しい状況になるが、来年3月、24台のマシンがアルバートパークに集まるかは疑問だ。

そもそも、F1はお金がかかりすぎだ。経費削減のためにテスト期間を縮小し、シーズン中はエンジン開発を禁止するなど、対応は取られているが、格差を解消することはなかった。

オイルマネーや不動産本が参入しないとこのコストは賄われないのだろう。そしてモータースポーツへの愛情ではなく、投資効果だけで判断され、効果が無いとすれば早々と撤退することを繰り返すのだろう。

恐竜たちは生き延びることができるのだろうか?

WECスポーツカー選手権のように、1ラップあたりの熱消費量を規定して、使用するエンジンはなんでもよいことにするなど、抜本的な修正が必要な時期に来ているのではないか。

コンパクトなロータリーエンジンを利用したF1のデザインは、どのようなものか見てみたいと思うし、ディーゼルは?昨年のルマン24時間レースで見られた、ニッサン・デルタウイングのような、革新的なデザインのマシンも見られるかもしれない。

とにかく、今年のF1は終了した。来年はメキシコが増えて20戦が行われるが、その地で、ホンダが1965年に初優勝したときのように、「来た、見た、勝った」との言葉が世界を飛び交うのだろうか?

まだ、四日市で治療を続けるジュール・ビアンキの早い恢復を祈る。

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 可夢偉(つらいだろうな)をパスするアロンソのフェラーリ        

 

2014年1月24日

音楽の喜び

今月。クラシカジャパンというCATVの番組で、2013年ザルツブルク音楽祭で行われた「ホワイト・ハンド・コーラス」が放送されています。これは、音楽を通じて貧困層の子供たちを救うベネズエラの画期的な音楽教育システム「エル・システマ」の中の障害を持つ子供たちのコーラスグループです。

なぜ「ホワイトハンド」なのか、これは肉体的・精神的障害を持つ子供たちと白い手袋をした手の動きで歌う聴覚障害・聾唖の子供たちが同じステージで歌うということからきています。障害を持つ子供たちを、社会と結びつけることを目的に1995年創設され、ユニークな合唱団として全世界から注目を浴びています。
そして、彼らの初の海外ツアーが何と「ザルツブルク音楽祭!」この番組は、喜びにあふれる彼らのコンサートとその舞台裏を収めています。

プログラムはベネズエラ民謡からボサノヴァ、ピアソラ、モーツァルトまで。歌を歌うことができなくとも、白い手袋をした両手で合唱ができる幸せ、そして障害があっても大きな声で歌える幸せ!彼らの素晴らしいハーモニー、ラテンのリズムのノリの良さは素晴らしいの一言です。

 

どんなに身体的、精神的障害を受けたとしても、スポーツや音楽、絵画、彫刻などの芸術は決して扉を閉ざしてはいません。その扉を開けるのは、本人は勿論、両親や家族であったり彼らをささえる人たちです。

人生の喜びを満喫することができるチャンスと場を、すべての子ども達に与えることが、私たち大人の役割だと思います。最近わが国では、自分の子どもを飢えさせ、虐待し、川に投げ込むなど、悲惨なニュースが相次いでいます。貧しくとも子供達の可能性を捨てさせない中南米の国の暖かい試みを、私たちも見習うべきと思うのです。

 

コンサートの会場では、終了時にはベネゼエラの国旗が降られ、聾唖の女の子が白い手袋をはめた手でガッツポーズをしていたのが、とても暖かでうれしかった。

子供たちの笑顔を見ているだけでこちらまで笑顔になる、本当の音楽の喜びに出会えた土曜日の午後でした。

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2014年11月22日

一般社団法人エル・システマジャパンへの援助をお願いします。FaceBookから「いいね」や「シュア」をするだけで支援金が送られます。

http://gooddo.jp/gd/group/elsistema/?md=fb

「見えない。そんだけ。」

東京オリンピックの後、在京のTV局で始まった、三菱ダイヤモンドサッカーという番組がありました。実況の金子さんと岡野さんの平易だけれど専門的な解説は、欧州サッカーの現状をわたしたちに知らせてくれました。「サッカーを愛する皆さんこんにちは!」という声掛けで始まった番組は、いまは「世界の、サッカーを愛するすべての皆さん!」に代わっていると感じた出来事が東京でありました。

 

東京代々木で行われていたブラインド・サッカー世界選手権で、日本代表はPK戦で中国に準々決勝で敗れ、5位決定戦に臨むことになりました。視覚障がい者のサッカー大会で初めて、A代表ですら成し遂げられなかった快挙です。

サッカーという世界共通スポーツを楽しむために、道具を造り、ルールの工夫を凝らし、その楽しさと素晴らしさを満喫するために、努力を続けた結果のすばらしい到達点でした。

 

それと同じ今年8月にブラジルで行われた知的障がい者のサッカーワールドカップでも、日本代表はベスト4に入った。これも快挙です。

2002年の日韓ワールドカップの時の大会を調布の「味の素スタジアム」と決勝を「横浜スタジアム」で観戦したけれど、そのレベルの高さはただただ驚きでした

残念だったのは「知的障がい者サッカー連盟」が「日本障がい者スポーツ協会」に加盟していないことから、ブラジルへの遠征費を自己負担しなければならなかったこと、パラリンピックの種目には入っていないこと等です。そんな中でも彼らの働きは、サッカーは誰でもできることを再認識させてくれました。

ブラジルでの対ドイツ戦で気が付いたことは、ドイツは代表チームのユニフォームを身に包んでいたのに、ブルーではあっても、日本代表は大会を通じて代表ユニフォームを着れなかったことです。遠征費の援助や代表を表すユニフォームをぜひ提供してほしいと思うのです。彼らは皆、我々の代表なのだから。

 

今年9月、ニューヨークを訪れた安倍首相は、錦織選手のUSオープンテニスの決勝進出については最大限の賛辞を述べたけれど、同じ大会で得た、車いすテニスの国枝選手、上地選手の男女単・複同時優勝と、国枝選手のグランドスラム達成には、一言も触れませんでした。どちらが価値が高いとは言わないけれど、人一倍の努力をして結果をつかんだ人たちへの尊敬の目線が、圧倒的に不足していることを示していると思います。

サッカーが好きなら、テニスが好きなら、バスケットが好きなら、ハンディをものともしない人たちの活躍にも目を向けていきましょう。「見えない。そんだけ。」「車いす。だから。」とする彼らから、たくさんの勇気をもらうために。

「世界の、スポーツを愛するすべての皆さん!」と呼びかけて。

 

2014年11月21日

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写真:日本ブラインドサッカー協会HPより転載

1989年11月10日。25年前。ベルリンの東西ドイツを隔てた壁が崩壊(まさしく)した。

12月のレナードバーンスタイン指揮(癌に侵されていたと後になって聞く)、歓喜(Freude)を自由(Freiheit)と変えて謳われた第九を聴きながら世界の変化を実感できた。

その年の6月に、わたしは「サッポロ恵比寿ガーデンプレス再開発プロジェクト」にかかわり、ビール博物館の視察でドイツ(当時は西ドイツ)、デンマーク、チェコスロバキア、オーストリアを訪れていた。ベルリンもその一つだった。ブランデングブルグ門前の広場には西ベルリンを見渡すためのステージがあり、静かな(活気のない)東ベルリンの一部が見渡せた。自分が越えられない結界に立っていることに何ら不思議な感情を持たなかったのを記憶している。しかし、その時すでにソ連のゴルバチョフのペレストロイカを発端とした大きな奔流は深く大きく流れ出していた。疎かった。

その後チェコスロバキア(当時)のプラハへ向かった。空港では荷物は別のテーブルから出てくるし、イミグレーションの女性係員は無愛想に制服を着せたような感じだし、これが共産圏かと印象は悪かったのを覚えている。我々の行動には旅行社の人間が付き添い(監視役)夜のホテルのバーにはそれとわかる女性が多くいたことも悪印象だった。

しかし、プラハのピルゼンビールの味は世界一だと思う。泡の肌理の細かさはいうに及ばず、ホップの苦みは昇華・洗練され、琥珀の水の甘さがあふれていた。工場長は1パイントジョッキ3杯目で評価してくれという。1杯目がうまいのは当たり前だからと。

それでも陸路オーストリアの国境を超える時は、思わずため息が出たほど異なった体制の空間への緊張が強かった。

壁がなくなって25年。ウクライナ、イラク、ガザ、そして東アジアの半島でも、今でも多くの壁が存在している。この壁があの時はと語れる日はいつか来るのだろうか?

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2014年11月10日

父が話したこと

明治34年生まれの父が亡くなったのは、私が中学2年の正月だった。直接の死因は肺炎だったが、胸を患っていた父に病気を覆す最後の体力はなかったのだと思う。

父は満州に出征した。詳しい場所や日時は教えられなかったが、戦地での写真(小さなモノクロ写真)が残っているところを見ると、まだ戦局は厳しさを迎える前だったのかもしれない。父は自動車の運転ができたことから、どうやら補給部隊に配属されていたようだ。一度車の運転ができたから助かったと話していた記憶がある。

その戦地での病症がもとで結核を患ったらしい。子供のころは働いている父の記憶が薄いのは、永く平塚のサナトリウム(現・杏雲堂病院)に入院していたからかもしれない。

確たる記憶がないのは、私がまだ幼かったからことと、父が自分の戦地での話を一切しなかったからだ。

父は幸いにも最前線への配属はなかったけれど、兵員の輸送や前線からの後方搬送には携さわったことだろう。そこで見たものは、南の島での伝え聞く悲惨な状況には及ばないものの同じ戦場の風景だったはずだ。

 

彼のもっている写真の中で、隊旗が中央をえぐれ、周辺の房だけが残ったものを捧げ持つ写真がある。隊旗がちぎれるほど、所属部隊がいかに前線で果敢に戦いぬいたかの証明であるようだ。父は「こんなに都合よく真ん中だけ打ち抜かれるものじゃない。破くんだ。」と吐き捨てていた。その時の父の表情はもう記憶にないが、その言葉は、理不尽で、一部の功名心で飾られた組織への軽蔑(侮蔑)に聞こえた。

悲惨さの裏にある功名心。そのために多くの人たちの命を失っていったこの戦争を、彼なりに異議申し立てをしたのだと思う。

父はこの戦争についてほとんど語ることをしなかった。我々にその体験を聴かせることもなかった。話すことで、人間としての一番汚れたものを曝さなければならなかったからか。あるいは、汚れた手を隠さざるを得なかったのか?すでに戦後の復興期に入り長い時間がたち、今後は自分のような体験をしなくて良いと実感したからだろうか?実際はわからないけれど、多くの戦争体験者は話すことも憚れる悲惨な体験に口を閉じてきたのだと思う。

 

戦後70年近くを経て、少しずつ自らの体験を言葉にする人がいる。決して言葉を飾らず、自分の声で、朴訥に話す内容はもしかしたら我々の明日の体験かもしれない。

北の凍えた大地に倒れた人や、南の島で飢餓に倒れた人たちの声を私たちは聴くことができない。その代わりに生き残った人たちは、彼らを代弁することが、言葉で無念を伝えることが課せられた役割だと思う。

語り継ぐこと、続けることが、無意味な戦争への道を封じる私たちに残された唯一の武器であると思う。父ももっと私たちに話してほしかった。何を希望に生きてきたのか?その希望をどうして、何が奪っていったのか、その結果何が残ったのか、しっかりと伝えてほしかったと今は思う。

 

2014.8.15

空想旅日記

小学生の高学年から中学生になるころ、気象衛星などはない時代、ラジオから流れてくる各地の気象台からの情報をまとめて、定時に放送していた「気象現況」を聴くのが楽しみでした。

「南大東島、晴、西の風風力3、1009ミリバール(当時は)。沖ノ鳥島、晴、南西の風風力3」と淡々と読み上げるアナウンサーの声を聴きながら、南の島々から北の島々まで、今の天気を聴きながら、まだ見たことのない情景を想像するのが好きだったようです。

この気象現況(まさしく今現在)は、経度、緯度を読み上げることもあり、その土地(海上)はどこだろうと思っていました。誰もいない海の上の気象がなぜわかるのかと不思議でしたが、しばらくして漁をしている漁船からの情報だと教えられました。

 

戦後10年ほどの日本、まだ駐留軍(米軍)の兵隊が町のあちこちで見受けられ、傷痍軍人の姿も珍しくなかったそんな時代、外国への旅など夢の時代に、もう一つ異国への想像を掻き立てるものが「本」でした。

幼なじみの家には子供向けの世界文学全集(終戦後10年で)があり、時間があれば(子供だから有り余っていたが)借りて読んでいました。まさに、本の世界こそ見知らぬ外国の風景を見せてくれる唯一のものだったのです。いわば、「空想の旅」をしていたのです。

「フランダースの犬」では、アントワープ大聖堂のルーベンスの絵はどんなものだろうと思うのですが、人生経験のない子供の想像力は限りがあり、大聖堂の空間の大きさなど想像できないし、その時はルーベンスがどのような作家なのかもわかりませんでした。

「岩窟王」(モンテ・クリスト伯)のマルセイユ、イタリア、フランス。トムソーヤの森や、河の風景。15少年が漂流して生活した島はどんな形をしていて、どんな海の色だったんだろう。

エイハブ船長の母港の冬はきっと寒くて、道は凍っていて、冷たい風が海から吹き上げてくるだろう。などと、空想の腕を広げながら旅を楽しんでいたように思います。その旅は今、現実にかなう旅だけれど、実際にその場に立ってみると、子どものころに感じた(想像した)風景の方が、子供のスケールを差し引いても、もっと大きく、広かったように思うのです。

 

わたしたちは、大人になることと引き換えに、多くの物を差し出してきましたが、純粋な空想力をなくしてしまったことが、懐かしくまた残念なことでした。

現実社会の中では夢を追うだけでは生きていけないけれど、できれば心の片隅に少しでも子供の空想力を持ち続けていたいと思っています。

そうすれば、今日も夢の中で、思わぬ風景や人々とに巡り合えるかもしれないから。

 

2014.7.18

誇り高く美しい敗者たち

2014年ブラジルW杯も準決勝を迎えることとなった。今大会、日本代表は順当と言える予選敗退(しかも一勝もできず)をした。3試合を通じて得点は2。同じ2得点のギリシャが予選突破を図り、日本ができなかった原因はどこにあるのか、敗戦の総括を行わない限り4年後は無い。

アジアの代表はすべてが予選リーグ敗退、しかもグループ最下位で大会を終え、アジアは世界との差がまだまだあることを突き付けられた。それに引き替え、アフリカ勢や中南米チームの躍進が目立つ大会であった(まだ終わっていないが)。

 

ベスト16。素晴らしいゲームが続いた。

チリはブラジルに果敢に挑み、先制されても同点に追いつきPK戦の末敗れた。チリはブラジルに負けなかった。メキシコもオランダ相手に素晴らしいゲームをした。アルジェリアはドイツに一歩も退かなかった。アメリカはベルギーに2点リードされても若いグリーンが奮起して今後につながる一矢を報いた。2点目を入れられた時には皆ピッチにうずくまったのに。

ベスト16に残って、惜しくも(本当に惜しくも)残り敗れ去ったチームには共通の特徴があった。それは勝とうとする強い意志と、勇気とともに最後まであきらめない闘争心だった。

準々決勝に勝ち上がったチームは予選リーグすべて1位通過のチームで、順当と言えば順当だが、彼らの代わりに上記のチームが出ていても不思議ではなかった。それほどに彼らの勝つことへの意思は強く、そしてその姿は美しかった。ひるまず、臆せず、何のために戦うかという強靭な意思をもって、戦いの場に臨んだ。その覚悟が尊く美しく見るものに感動を与えた。ましてや自国民をや。

 

今回のW杯で、我が国と世界とは大きく差をつけられていることが明白になった。メキシコの戦いぶりを見て、彼らに倣うべきという声がいつも上がるが、そのような動きは今まで行われたことがない。

いうなれば事業(W杯ベスト8)が失敗した責任は、代表監督(最後の最後にW杯未経験の脆弱さを露見したが)や選手だけでなく、サッカー協会幹部にも我々にもマスコミにもある。

プレッシャーのかからないホームでの格下相手の親善試合は何ら意味がなく、これを古人は「畳水連」(畳の上での水泳の稽古)という。真剣勝負での多少の傷を受ける覚悟無くて、世界で戦う資質を蓄えることは不可能だ。スポンサーに気兼ねしてか、広告代理店の圧力か知らないが、せっかくの招待を受けたコパアメリカを辞退し、自ら真剣勝負の場から逃げ出すような姿勢には、本気で世界を相手にする気概が感じられない。それは心地よい勝ち戦だけに酔いしれる我々にも責任がある。真剣勝負を行い、無様な戦いをした者には容赦ないNOを突き付けるべきだし、報道も正確な情報と正当な評価を下すべきだ。そのような行動によってこそ代表は育てられる。

4年後。敗れたとしても、日本かく戦えりと相手からも賞賛され、胸を張ってスタジアムを後にすることができるだろうか?

 

 

2014.7.8

この道はいつか来た道

69年前の今日、6月23日。沖縄戦の組織的抵抗が終わった。

実質的な終戦(敗戦)が訪れた日であった。この時に敗戦をうけいれていれば、広島も長崎もなかったと思うのは時間を巻き戻さない限り意味のないことけれど、事実、300万人の犠牲の上で現在があることを忘れてはならない日だと思う。

 

「集団的自衛権」という魔物が歩き出そうとしている、それも一人の人間の意思だけによって。

「集団的自衛権」、「積極的平和主義」をはじめ、彼は「的」という言葉をあいまいにする字句が好きだ。正確な言葉で主義を語り、論理を尽くして説明しなければならない政治の世界に、情緒を持ち込んで(子供を連れた母親のパネルを出して)訴えることは、政治家の態度ではない。まして、あいまいさで、抽象的で、観念的な論理と解釈で、行動の範囲をいかようにも広げられることを目的として、「的」を使っているように思える。

他国が始めた戦争に、自らは前線に参加せず、若者を送り出すことに何ら躊躇しないのは、為政者の常である。そのことは70年前に経験したはずだ。我々はいつから学習しない国民になったのか。

 

「シベリア・シリーズ」を描いた画家、香月泰男の仕事を立花隆がルポした「シベリア鎮魂歌・香月泰男の世界」を読んだ。香月はシベリアへ送られる貨車の中から、道端に捨てられた皮をはがれた「赤い肌の屍骸」を見たという。彼は満人に恨みをかった日本人の屍骸だと思ったという。

戦後多くの昭和の戦争の総括は焼け焦げた「黒い屍骸」いわゆる被害者としての日本人から始まった。皮をはがれるほどの憎しみを受けた、加害者としての「赤い屍骸」。我々はその「赤い屍骸」からこの、昭和の戦争の総括を始めなければならないのではないかと彼は言う。

 

戦後70年。我々はわれらの中に戦争による「赤い屍骸」も「黒い屍骸」も見ることなく過ごしてきた。それは侵略のための武器を持つことを放棄したからに他ならない。

武器による戦闘(殺し合い)で物事は解決しない。そのチカラをなぜ外交手段によって解決しようとしないのか。我が国周辺に緊張や緊迫した状況があるとしたら、その緊張を解く努力をなぜしないのか。その努力をしてきたか。

「特定秘密法」やこの「集団的自衛権」の行使。日本は「戦争の放棄」という美しい言葉を永久に捨て去るのか。

我々は、再び、「赤い屍骸」の前に立つ覚悟があるか、問われている。

 文中敬称略

 

2014.6.23

 

今日(7月1日)の閣議で「集団的自衛権」の行使に対する閣議決定がなされた。

自覚せよ。我々は累々たる屍骸の横たわる道を歩き始めた。

名店が消えた。古きを訪ねて新しきを知る。か。

古びた藍色ののれんをくぐり、引き戸を開けると、夕方の5時少し過ぎだというのに店内は既に満員だ。多くが中年のサラ―リーマンで、数えるほどの女性が混じっている。

「何名様」

「2人」と指を二本たてる。

「そちらの奥へどうぞ。すいませんね、少しお繰り合わせを」

神棚の下のデコラの長テーブルを少し開けてもらい、ビニールの丸椅子に向かい合わせに座る、これがこの店の流儀だ。

神棚の下。

「宮下へおかけな〜い」先代の金馬師匠の名作「居酒屋」の小僧のセリフを思い出す。

とりあえずビールはない。

壁にかかった品書きを見て、酒とつまみを注文する。

「三千盛、それと煮込みとポテトサラダ。」「私はエイひれも」しっかり温度管理がされたうまい日本酒が、ほど良い価格で飲めるのはとても貴重だ。廻りはもう出来上がっているおじさんたち。声が大きい。我々の会話も自然と大きな声になるか、顔を近づけての会話になっている。

「次は黒龍を」「こっちは田酒」

誰かクサヤを注文したようだ。強烈なにおいがたち込める。でも、皆あまり関心がない。連れ合いも「お、勇気あるなー」とだけ言って、会話の続きに入る。

ここでは皆大酒は飲まない、皆適当に赤い顔をして、「おあいそ」の声をかける。

その日の体調で、一番うまいと思える酒を二合か三合。つまみは少し。

今はメジャーになった「十四代」や「久保田」(万寿や碧寿はないけれど)を勧められたのもここだった。

親父さんのつくる「銘酒100選」がバイブルだった。

そんな「鈴傳」がなくなり、虎の門ヒルズがオープンした。

 

2014.5.27

ラフォルジュルネジャポン2014

5月の連休、3日から5日まで。東京の丸の内を中心に、クラッシク音楽祭「ラフォルジュルネジャポン」が開催されました。

東京フォーラムを主会場に東京駅周辺の広場や、アトリウムを会場にフルオーケストラから、バイオリンとピアノのデュオまで様々な形態の演奏会が開かれていきました。

すべてのコンサートを聴くことは勿論不可能なプログラムでしたが、4日の一日を朝から夜まで、3つのコンサートを梯子し、空いた時間は街角のイベントへ足を向けました。

当日は東京フォーラムAホールのコンサート、ラフマニノフのピアノとブラームスのバイオリンコンチェルト、そしてモーツアルトのK626「レクイエム」を選びました。音楽祭の細かなスケジュールの制約から、いちコンサート1時間の時間制限の中で、少し余裕がない部分もあるけれど、モーテュアルトはシンフォニア・ベルソヴィアの小編成のオーケストラから生まれる音の豊かなことに圧倒され、レミ・ジュニエのはつらつとしたピアノ、イェウン・チェのキレのいい演奏で、若い才能を十分に堪能できたことはこの休日の大きな収穫でした。

そのほか、展示場で行われた桐朋学園のオーケストラは、ガーシュインの「パリのアメリカ人」とレナードバースタインの「ウエストサイドストーリー」を楽しく聞かせてくれましたし、少し背伸びした小学生のビックバンドや、ウキウキするような民族音楽のセッションも楽しい時間でした。

無料のセッションでも、演奏前にきちっと音合わせを行っているAura(アウラ)の女性コーラスグループの姿勢に、プロの厳しさと心構えを垣間見ました。

今回の収穫は勿論ホールでのコンサートだったのですが、そのほかに中央郵便局KITTEアトリウムで開かれた、黒川揖、須関裕子のデュオは素晴らしかった!の一言です。

演奏の環境は決してよくなく、しかも電気音響で処理されていたので、正確には音質はつかめないけれど、それを度外視して、素晴らしい演奏でした。正確でキレのいい黒川揖のバイオリンはもう少し条件の良い(たとえば東京文化会館の小ホール)で聞いてみたいと思わせるものでした。

演奏終了には万雷(大げさでなく)の拍手と想わず「ブラボー」の声と口笛がかかりました。このような演奏が無料で聞けるなど、10年間損をした気がしています。

初めてこの音楽祭に来て観て、来年はできるだけの演奏を聴いてみたいと思っています。

 

2014.5.6

絹産業遺産群と日本の近代化

4月26日、群馬県富岡市にある富岡製糸工場と絹産業遺産群が、ユネスコの世界文化遺産への登録が望ましいとの「記載」を受けたニュースがあった。今年の6月の世界遺産委員会で正式決定する見込みとのこと、未明に訪れた良いニュースだと思う。

「記載」の理由はフランスの協力を得て、良好な労働環境と技術移転を行ったこと、その保存への努力と聞く。最近は「富岡」は官制であったから労働環境は良好で、搾取はなく工女も良家の子女であって、皆誇りを持って働いたという人もいる。しかし官制工場はわずかな期間でしかなく、この国の基幹産業の多くは官制の体裁を取った後民間に払い下げられた。そして、その後の労働環境は悪化していった。それは製糸工場だけでなく、各地の石炭鉱山、銀鉱山などに多くの事実がある。

今回の登録「記載」は絹産業遺産であることから、当時日本の基幹産業であった製糸産業全体を見渡す必要があるだろう。そこには光の部分よりも深い闇があった。細井和喜造のルポルタージュ「女工哀史」や、山本茂美の「ああ野麦峠」に代表される工女たちの労働を想わずにはいられない。

わずか12,3歳の少女たちが、1日12時間から13時間の労働に耐え、故郷へ貴重な現金収入をもたらした。「女工哀史」という言葉から悲惨な労働環境を想像させるが、明治から大正・昭和の初期までの農家(特に飛騨などのの山間部)ではもっと厳しい生活のため(食べるため)の労働が長時間行われていたのである。

中には年間100円(当時家一軒分の金額)の賃金を稼ぐ100円工女もいた、飛騨の工女からは食事が粗末だったとの声はなかったとの証言もある。だからと言って、彼女たちの生活と労働が楽だったとは言えないし、「労働力としての人間」としか見なかった工場(国)側の論理に与することはできない。

なぜ、良好だったといわれる労働環境が失われていたのか?明治以降近代化を促進する日本政府にとって、外貨の獲得は最優先の課題であった。当時、国の輸出の1/3を占めていた生糸生産は、彼女らの労働によって支えられていたといってよい。明治の混乱期が過ぎ日清・日露の戦争へ傾いて行った近代日本。男は兵士として、女は貴重な(安価な)労働力としてしか見られていない時代、獲得した外貨は彼らのために使われるのではなく、今そこにある戦争への準備に費やされていった。近代化遺構とは明治から昭和までの大きなゆがみの歴史なのだと思う。

飛騨や新潟の村々から富岡へ、信州へ出て行った彼女たちは、どのような思いで故郷の峠を越えていったのか。もっと社会に対して人間の可能性を見つけたくはなかったか?その機会を奪われていることに疑問は持たなかったか?それはなぜか?近代化を駆け足で進めていく近代日本社会に、女性(男にとっても)の参加する場は限られていた。今の我々は彼ら(彼女ら)の作った基盤の上に立っている。

 

2014年4月30日

図書館のすすめ

最近公共図書館を利用することが多くなった。自宅の近くに私立図書館の分館があるので、郷土資料を検索に行ったついでに何冊か借りてみた。

坂東真砂子の「梟首の島」「傀儡」池上永一「黙示録」。普段本屋に行っても手にしないだろう作家の昨品を読む機会になった。面白かった。思わぬ分野が開けてきた。

その後、返却しながら中山可穂「ケッヘル」、ジョン・カルショーの「ニーベルングの指輪−リング・リザウンディング」を借りた。特にカルショーの「指輪」は一気に読み終えてしまった。

一読をお勧めする。

音楽関連の書物など今まで読んだこともなかったから(あの有名な小林秀雄の「モーツアルト」すらも)とても新鮮であった。いわば録音の記録でもあるのだけれど、登場する人物が生き生きとして躍動している文章は、訳者の技量もあるのだろうが衝撃でもあった。

 

図書館は読書の可能性を広げてくれる場所だ。子供のころは学校の図書館や、町の中の貸本屋さんへ出かけていたけれど、歳をとるにしたがって専門書や関連する資料を自分で買うことができるようになってから、図書館へは足遠くなった。

図書館は読書の範囲を広げるだけでなく、読書の冒険ができる場所だ。自分の興味以外の本を手にして、やはり興味がわかなければ返却すればよい。本屋で選ぶ本はお金を出して買わなければならないから、どうしても評判という情報に左右されたりする。

無料でしかも大量(私の地域では10冊まで)に借りて、面白ければ作家の全作品を読むことも可能だ。しかもリクエストも聞き取ってくれる。

これからも未知の作家に巡り合える喜びを満喫したいと思っている。

 

それにしても、もう少し丁寧に本を扱ってもらえないものか。栞があるのにページを折ることはないだろう。アンダーラインや書き込みをする必要はあるのか。子供のころに、本は知識の塊だから大切にするようにしつけられた年寄りの愚痴だろうか。

 

2014.4.30

ゼッケン1

ロシアのソチで第22回冬季オリンピックが行われている。

前半を終わり、日本はなかなか上位の成績が勝ち取れないでいる。

JOCの役員を父親に持つ人間が「負けて(メダルを取れなくて)へらへら笑って、楽しんだとは言語道断である。彼らは国費(古く高圧的な言葉だ)で派遣されているのだから、もっと神妙になれ」とのたまわったという。

しかし、国は(我々は)彼ら、彼女らにどのような援助をしてあげたのだろうか?冬季(種目によっては夏季も似たようなものだが)スポーツは多くがマイナースポーツだ、所属する競技団体も政治力はなく、個人の力で競技を続けているのが現状だ。

オリンピックに出場するような位置を保つには、経済的な負担は計り知れない。それでもアルバイトなど不安定な生活の中で競技を続け、この場を勝ち取った彼らに賞賛こそあれ、非難すべき何もない。

 

そして、4年に一度の大会であることから、悲喜こもごもの風景がみられる。昨日終わった男子フィギアスケートでは、ロシアのプレチェンコが腰の故障でFSを滑ることができなかった。

絶対本命と言われたスノーボードHPのショーンホワイトも4位とメダルに届かなかった。

4位といえば今回初の公式種目となった女子ジャンプの日本の高梨紗羅も、モーグルの上村愛子もメダルを逃した。

4年に1回の大会のその競技する1日にピンポイントで調整してくる難しさが如何様か、そのような経験のない我々には想像もつかないが、参加した皆がベストを尽くしたとは言える。

今年ランキングトップの高梨紗羅は、30番のゼッケンをつけて競技した。1番のゼッケンをつけて飛んだのは、今年ポイントが取れなかったアメリカのサラ・ヘンドリックだった。

未開の女子ジャンプを牽引してきた彼女が、ひざのけがで、思うようなジャンプができなかったのも4年に一度というオリンピックの魔物性だろう。このオリンピックが1年ずれていたら、結果は違うものになっていたはずだから。

その年の最強の者が、必ずしもオリンピックの覇者となるわけではない。2014年のジャンプW杯のチャンピオンの名前と、同じ年のオリンピック金メダルと、記憶に残る度合いがまだまだ違うと思うのは我々日本人だけだろうか?

しかし、サラ・ヘンドリック。彼女がいなければ高梨紗羅は生まれなかったかもしれないし、プレチェンコがいなければ羽生結弦もなかったかもしれない。未開を切り開く先導者はとてつもなく尊い。サラ・ヘンドリックの付けた「ゼッケン1」は、一番目の競技者の意味でなく、まさにチャンピオン・ナンバーだった。

スポーツは勝者がいて敗者がいるのは必然。いかに悔いなく戦ったか、私たちはそれこそ見たいのだ。今夜もTVの画面を通して拍手を送り、その努力と決意をたたえたいと思う。

(文中敬称を省かせていただいた)

 

2014.2.15

等伯

新春の上野。国立博物館で、「博物館へ初もうで」というイベントが、1月26日まで開かれている。午年をテーマにした展示や、生活の中の美術等、いつものトーハク(東京国立博物館)と違い、階段正面には大きな生け花も飾られて、初春の華やかさにあふれていた。

 

その中で、静謐な空気の流れる特別展示室に、長谷川等伯の「松林図屏風」があった

等伯晩年の作品「松林図屏風」

智積院の「松に秋草図」にみられるような老木ではない

故郷能登の風景といわれる、立ち込める朝霧の中に海風に揺れる松の林

幹の輪郭はなく朝霧に溶け込んでいる

松は重なり、ひとり現れる

海風を受けて、墨一色の松の葉は柔らかくまた激しい

 

等伯がこの絵を描かなければならなかった背景に何があったのだろうか

権力に追従し描かざるを得なかった、今までの作品と異なり、自ら最晩年の心の表現として墨絵を選んだ意味はなにか

自らの継承者でもあった最愛の息子久蔵の死

芸術家としての孤独、

そして芸術家として終わりの悟り。

 

全ての芸術家の表現には、頂点といわれる時期がある。多くの作品の中で最新作が最良であるわけではない。

表現は必ず老いる。

等伯はこの「松林図屏風」によって昇華した芸術家だと思う。またこの絵は久蔵の死によって描きえたともいえる。久蔵の死が無ければこの絵は現れただろうか

等伯は江戸で客死するが、江戸での仕事(表現)で今まで以上の作品を残せたかはわからない。

 

この絵にまつわる推理や仮説は意味をなさない。ただ対峙することで、等伯の精神を感じ取るだけだ

特別展示室にたたずんで1時間

新しい年に向かい、去年感じた切なさや、憎しみや、憤りが洗われていく喜びをかみしめていた。

 

2014.1.8

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2013年

2013年が静かに暮れていきます。

 

今年はサ付住宅「もみの木」の仕事を通して、多くのことを学んだ年でした。高齢者住宅のありようや、運営の方法、行政のサ付住宅制度への立ち位置も再確認できました。東北へのかかわり方も考えされました。

事務所運営上は(正直な気持ち)効率が良かったとは言えませんが、それにもまして得たものの方が多かったと感じています。しかし、私の欠点だと自覚していますが、時々業務を外れて、運営する皆さんの生活に深入りしてしまったと、深く反省しています。

ただ、新しい住まいに住まわれた人も含めた皆さんの笑顔を見れば、設計の基本的な考えは間違っていなかったと自負してよいと思っています。

 

仕事では初めて海外(東南アジア)からの問い合わせがあり、日本側チームとして彼の地に技術(そして設計方法論)の移転ができると期待したのですが、やはりコミュニケーションギャップを埋めることができませんでした。語学力(これも技術てすね)不足を痛感しました。

 

東京を皮切りに東北から福岡まで、高齢者住宅の設計について話ができたのも、貴重な経験でした。各会場が満席だったことを見ると関心は高いと思うのですが、なかなか反応が伝わってきませんでした。しかし、ある方は会場を後にするときに「ありがとうございました」と頭を下げられ、ある人は自身のブログで私の意見に賛同をしていただけました。とてもうれしいことでした。

私たちは、高齢者とひとくくりにせず、一人一人に向き合った住まいを作る努力をすれば、日本の高齢者住宅は、世界に誇れるものになると信じています。チャンスをいただいた(株)LIXILに感謝です。

 

今年は社会の流れも大きく変わっていきました。

12月。「特定秘密保護法案」が可決されました。戦前(中)の軍部では秘密は「軍機」「軍極秘」「極秘」「秘」「部外秘」と別れていたことから、私は「機密保護法」と読んで、限られた事項のみと認識していましたが、「特定秘密」と、より広範囲での対象が意図されているように文言から感じます。

この法律には、多くの表現者が反対意見を表しましたが、建築界や福祉の分野での異議申し立ては今まで見つかっていません。図らずも権力に寄り添わなければ仕事(自己表現)ができないことの証明なのでしょうか。我々の立ち位置の危うさもわかりました。

 

「御家の真(まこと)を伝えてこそ、忠義であるとそれがしは存じており申す。偽りでかためれば、家臣、領民の心が離れて御家はつぶれるでありましょう、嘘意偽りのない家譜を書き残すことができれば、御家は必ず守られると存ずる」これは葉室麟著「蜩の記」の中で、藩の家譜編纂を命じられた戸田秋谷が、切腹を前に語る言葉です。

「特定」というベールに包まず、正確に、隠し立てせず、偽らずに政ごとの記録を残すことがいかに国の将来に重要か、我々は認識しなければなりません。その危険性が消えない限り、私たちにできることを、言葉にしていかなければいけないと思います。

 

もう一つの建築界の出来事は、2020年東京オリンピックメイン会場の、新国立競技場建て替え問題に対する、槇文彦氏を中心にした抗議でした。

オリンピックのために、8万人規模の屋根付き(コンサート用)競技場を新しくすることに、さほどの意義があるとは思えません。現状の霞ヶ丘競技場を改修(仮設も含めて)することは、JSCは無理と結論付けていますが、建設費の節約だけでなく、よりチャレンジングな課題だと思います。

また、コンペ審査委員長の安藤忠雄氏が、前回の東京誘致の際に提案した臨海部での競技場案と、今回の案が「環境」という面で大きく変わっていることはなぜでしょうか。外国人建築家も含めた審査委員の意向でなく、初めにJSC案ありきのコンペだったのでしょうか。

実施には、3,000億円を超えるといわれたザハ・ハディド氏の案を、JSCは1,700億円に規模を縮小しました。コンペはアイデアを募っただけだとのこと、基本設計をはじめ実施設計は日本の設計事務所で行います。この縮小案に、設計者の意向がどれだけ反映されているのか、不明なのも気になりますし、それではあれば、コンペの参加資格を広く開放して、若手の建築家のアイデアを、もっと汲み上げてもよかったのでないかと思います。

JSCはラグビーW杯、将来のサッカーW杯の再誘致、またコンサートなどのイベント使用を見据えて、採算ありとの考えですが、50年以上にわたる採算性を、担保しているわけではありません。

8万人規模のコンサートなど、年に何回(17回と見積もっています)あるというのでしょうか、またそれだけのアーティストはいるのでしょうか?周辺には、東京ドームや武道館など実績のある箱があります。それでも必要ですか?サッカーW杯の再誘致など、今の協会の外交力(社交力)や政治力、代表チームの世界での位置を考えれば画餅に過ぎません。

そして2020年、福島が、東北が、完全に解決に向かっていることが、何よりも前提であることを忘れてはいけません。

 

2013年が静かに暮れていきます。後世、あの年から日本は大きく曲がっていったといわれないように、見守る責任が私たちにはあると思っています。

 

 

2013.12.31

楓と桜

長かった紅葉の季節も終わり、やっと冬の底冷えがする京都智積院を訪ねた。お目当ては長谷川等伯の「楓の図」そして息子の久蔵の父をしのぐといわれる「桜の図」襖絵である。観光の季節を過ぎたからか、見学者は少なく、収蔵庫の中はゆったりとした空気が流れていた。

安倍竜太郎の「等伯」を読んで、また来年1月には東京国立博物館で等伯の「松林の図」が公開されるということなので「松林の図」に至る等伯の足跡をたどってみたかったのが初冬の京都を訪ねた理由だった。

 

収蔵庫に入って左側、等伯、久蔵親子の障壁画が目を引く。久蔵作「桜の図」。久蔵25歳の作品。安倍竜太郎の説では故郷能登七尾の枝垂れ桜をモチーフにしたという、大胆な構図の桜が圧倒的である。満開の一歩手前(上部が切れている)の、吹き出す命を見るような八重桜の膨らみのある花弁と若々しい幹が、26歳で亡くなる若き作家の、凝縮した生命の証しとして迫ってくる。

何度かの火災からの避難を繰り返したため、絵は上部が切り取られ天地が当初の大きさの半分でしかないが、完成された満開の桜よりも未完の強い生命力を感じる。

 

隣り合わせて、父等伯の「楓の図」。色づき始めた老木の楓、透明感のある葉の重なりがあり、風になびく秋草がある。植物図鑑かと思われるような緻密な描写、岩絵の具でここまで透明感のある描法を開拓した等伯の力量にはただ頭を垂れるしかない。

老木の重量感と、葉脈が透けて見えるような葉の透明感、秋草の重なり、子・久蔵の菩提を弔うために書いたとされる「楓の図」は、その無念さを力にした画家の魂そのものが見える。

息子の「春」に対して老境に入った父親の「秋」。二つの時間の流れが、一対の作品のように見るものに迫る。収蔵庫の床に座って作品を眺めると、桜と楓の木に包まれて、透視図法が使われていなくとも、無限に近い奥深い空間を感じることができる。楓の図が描かれた1600年ころ、ヨーロッパではマニエリズムからバロックの時代へ、レンブラントやフェルメールが絢爛たる芸術の花を咲かせていく。同じ時代に東洋の片隅でこのような作品がつくられていたとは、にわかに信じられないが誇らしい。それにしても久蔵の力量は素晴らしいものだ、詮無いことだけれど彼がもし父と同じ年を加えたなら、どれほどの宝を私たちは得たのだろうか。

 

智積院には利休好みといわれる庭園がある。手前に池を配し、自然石で構成された深山の趣きは一見の価値がある。

しかし、庭に相対する座敷の壁には等伯・久蔵親子の「桜の図」「楓の図」のまがい物(模写にもなっていない)が描かれており、その審美感を半減させ、おおきく壊している。ここはそのまま白い壁のままとすべきだろう。寺院のセンスを疑うし、この庭の価値を本当に理解しているのだろうかと思う。

 

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2013年12月11日

この国はどこへ行くのか

読み進めるごとに気が重くなる本に巡り合った。

津本陽著「八月の砲声」。

帯には「無条件降伏から60年。もはや戦後でなく戦前である。太平洋戦争の過ちが凝縮されているノモンハン事件を識ることで見えてきた、あの時、日本は如何に誤ったのか。」

「陸軍を代表する俊秀を集めた関東軍参謀たちが、なぜ非現実的としか言いようのない戦い方をして、二万に近い将兵を潰滅させたのか。」

外蒙国境の湿地帯で行われた戦闘で、対ソ連軍の兵力(火力)を見誤り、情報を恣意的に操作(無視)し、前線には補給の無い無理な戦闘を押し付け、その結果の責任は取らなかった参謀が、その後、太平洋のガダルカナルで同じ轍を踏み、ここでも多くの死者を出した経緯を知るにつれて、暗澹たる思いに駆られる。

 

明治以来、日本の軍事力は世界有数のものとなったが、日清戦争以来、敗北をなめたことがないため、内部から腐敗し始めていた。それを運営する組織は、幼年学校からの純粋培養された人間たちが、非現実な妄想の上で作戦を指揮していた。

そのために、厚生省援護局の調査で1万1千百二十四名が戦死し、戦死傷を含む全損傷は2万2千人といわれる結果だけが残った。

 

11月26日「特定秘密保護法案」が野党の一部(みんなの党17名)を取り込み、衆議院を通過した。福島での公聴会を開き、意見をくみ上げるポーズを見せた翌日の、姑息な強行採決だった。

4か月前。自民党を勝たせたのは我々だが、法案に半数以上が反対し、慎重審議を求める声は80%を超える法案を、このような方法で可決・施行してよいという信託は与えていない。そもそも4か月前は口の端にも出さなかったものだ。まして、「40時間(僅か)もの長時間の協議を経た」との自民党議員の発言は詭弁でしかない。

 

今後、行方にどのような闇が待っているかもう誰もわかりはしない。

もはや戦前であるという津本陽の指摘は正しいと思う。指導者としても器量を持たなかった者たちが暴走した時代が重なり合って見える。

 

2013.11.27